Nobody Knows

こないだ「金曜日は僕がブログを更新する」と宣言した新人のK松です。お忙しい業務時間帯かもしれませんが、すごく大事なことを書いてみようと思っていますので、しばしお付き合いくださいっ!!


−食にこだわり木にこだわらない現代人
スーパーに行くと、トレーサビリティといいますが、生産者の顔がわかるようになっていますよね? 何県何市のなんとか丸兵衛さんが作りました。そう書いてあるアレです。「自分の口に入るものだから、安心を買いたい」という消費者のニーズによって生まれたシステムですが、小名浜びいきの僕も、「小名浜港水揚げ」と書かれたラベルを見つけると、なんだか漁師のおっちゃんの顔が浮かんで食べたくなっちゃうわけです。

そんなふうに、僕はスーパーの陳列棚の前であれこれ考えてしまうのです。外国産の魚はどうもマズそうだなとか、色とか痛み具合とかちゃんと確かめないとなとか、セールの時の方が安そうだから今日は買わないでおこうとか。まぁこれが仮に失敗しても数百円の損失なんですけど、魚の切り身について思わず考えてしまう。そういうこと、ありませんか?


ところが、一生で一番高い買い物であるはずの家は、「商品へのこだわり」という意味で魚の切り身に適わない。僕の母も明太子はどこどこのがうまいとかいってるわりに、自分の家の柱に何の木が使われているか知らないんですよね。遠い昔の記憶を引っ張り出してみても、ハウスメーカーの担当者の話をただ頷いて聞いていたことしか思い出せない。

考えてみれば、体の中に入る食べ物と同じように、毎日体に触れ、しかも何十年もそこに暮らし、家族もそれを共有するわけですから、魚の切り身よりも、1本1本の柱や床や壁のほうにこだわらないといけないと思うんですね。何千万円も払うわけですから、家計の面から見てもとことんこだわるべきです。ところが実情は、うちの母ちゃんと大差はない。


−誰が木を小難しくしたのか
なぜか。それは誰かが、木を難しくし、生活から遠ざけたからだと僕は考えています。消費者が木に詳しくなると都合が悪い人たちがいるのかもしれませんし、単純に教育の問題なのかもしれませんが、いずれにしても、「木はどうも難しい」と考えられているがゆえに、消費者のこだわりや追求の目が曇ってしまっているのかもしれません。要は「木が何なのか」よくわからないので、厳しい眼をどう向けていいのかわからないんです。きっと。

だから僕も、このブログで毎回「木について語るべきだ」、「木に触れ合おう」と言っているのですが、多くの木材業者が語ってきた木は、「ぬくもり」とか「あたたかみ」とか、なんとなく聞こえのいい木ばかり。そうじゃなければ、「乾燥に強い」とか、「国産材を使っています」とか、「ムク材だから美しい」とか、商品の説明に終始していました。

でも思うんですけど(木材業界の新人なのにこんなこと言ったらヤバいかなぁ)、ポプラとかチークとかアカマツとかベイツガとか、正直よくわからなくないっすか? お米の種類だってそんなに多くないのに・・・。それなのに、「ぬくもり」とか「あたたかみ」とか、ゆる〜いところで木が語られている。これではかえって木の本来の姿をあいまいにし、「わかりづらく」してしまっているように思えて仕方ありません。


−木材のそもそも論を
298円の明太子にはこだわり、2980万円の家は人任せにしてしまうという社会。そこで、木のよさを伝えるには、そもそも木とは何なのか、身の回りに木を使うということは何なのか、「住む」ということはいったい何なのか、という「そもそも論」を出発点にしないとマズいのではないでしょうか。

そもそもの出発点を語らずに、「こんなことは常識だと思いますが」という暗黙の前提と、「ほんとは知らないけど恥ずかしいから言わないでおこう」という隠蔽のもとに(もしかしたら暗黙の前提や隠蔽があることすら了解せず)、ただひたすら雰囲気だけで語られるということがしばしばあります。ですから、そもそもそれって何なの? そもそもそれって必要なの? という問いは非常に、非常に大事だと思います。

少なくとも僕の母は、僕がここに書いたような話を僕から聞かされて、家の部材に対して興味を持ち始めました。実際には、家を建ててもう20年も経っているので「あとの祭り」だったりするわけですが、そもそも論から問い始めると、その後に語られる木の中身や知識の吸収率がだいぶ変わってくるはずです。「木は生きている」という意識すら共有されていなかったら・・・。そこで語られる木のぬくもりや樹種って、いったい何なんでしょうか。


そもそも木って、何なんですかね。
その問いは、もしかしたら多くの木材業者へ向けられたものかもしれません。
■K松■