アガチス通信 vol.2 「アガチスと共に・・・」

先日、新人のK松君も書いていた通り、当社の取扱いメインアイテムは「アガチス」という木です。おかげさまで、このアガチスの取扱量に関して当社は“日本一”だと自負しています!

そんなわけで、滝口木材を語る上では欠かせないこのアガチスという木について、私Kも、いろいろな角度からフォーカスしていきたいと思います。ちなみに私は、12月1日から約40日間、アガチスの検品業務遂行のためインドネシアのスラバヤへ出張いたします。アガチスのホットな情報はもちろん、現地で起こっている出来事など出来る限りお伝えしていこうと思いますので、どうぞお楽しみに!


アガチス通信 vol.2
アガチスと共に・・・

下段右から3番目の人物が滝口木材の礎を築いた創業者、故・滝口寅雄。


前回は、K松君が独自の視点でアガチスについて語ってくれましたが、今回は、滝口木材がアガチスを取扱ってきた歴史を振り返ってみたいと思います。まずは、当社の沿革をご覧下さい。

  • 昭和21年6月 滝口木材商店として小売業創業(写真・上)
  • 昭和24年4月〜昭和28年5月 いわき市川前村にて川前森林組合より製材工場を借受経営
  • 昭和28年6月〜昭和34年4月 いわき市平正月町にて製材工場を経営
  • 昭和36年4月 滝口木材株式会社設立
  • 昭和34年5月〜平成7年12月 いわき市平正内町にて製材工場を経営
  • 昭和46年3月〜平成7年12月 いわき市泉町のいわき木材工業団地内にて製材工場を経営
  • 平成7年12月 いわき市泉町(現住所)に平本社及び平工場を全面移転
  • 現在に至る


戦後のいわきの復興に尽力すべく、昭和21年に産声を上げた滝口木材。昭和20年代というと、まだ戦後間もない時期です。製材のための最新設備もなかなか揃えられなかったことでしょう。創業当時のこの白黒写真を見ると、滝口木材の礎を築いた先輩たちの熱き志を感じずにいられません。昭和34年頃までには、国産材(杉・桧)年間約30,000㎥の生産能力を持つまでに成長したといいますから、当時の職人たちの働きというのは、すさまじいものがあったと思います。

高度経済成長に沸く昭和40年代に入ると、滝口木材の業態もさらに変化していきます。昭和39年、小名浜港が外材輸入の「特定港」に指定され、立て続けに3つの埠頭が完成すると、にわかに木材基地として注目されるようになります。それにあわせるように、滝口木材も木材団地に進出、昭和46年、いわき市泉の木材工業団地に製材工場を完成させました。そして、年間50,000㎥の南洋材製材を行うまでに成長を遂げたのです。

しかし、昭和50年後半頃から現地で資源ナショナリズムが膨らみ始め、海外への丸太の輸出をストップさせる動きが出始めました。昭和60年(1985年)にインドネシアで丸太輸出が禁止、平成5年(1993年)にはマレーシアサバ州が丸太輸出禁止。平成元年以降は南洋材製材を全面的に中止せざるを得ない状況になりました。それ以降滝口木材も、取扱商品を徐々に「現地挽き製材品」にシフトしていくようになっていきます。



1971年、いわき市泉の木材団地に誕生した工場


戦後の経済復興を担った木材の1つである南洋材・アガチス。今でこそ資源の減少や現地の様々な諸規制もあり輸入量が年々減っていますが、南洋材の代名詞であるラワンと肩を並べる存在にまで成長しました。当社も、時代の流れに翻弄され、紆余曲折もありましたが、アガチスに携わり40年になります。

滝口木材の歴史は、アガチスを愛し、敬い、「アガチスの良さを日本中に広く知ってもらいたい」という想いと共にありました。だからこそアガチスにこだわり、今日まで走り続けてくることができたのだと思います。これまでアガチスを評価して頂き、実際に使って頂いたたくさんの人たちへ改めて御礼を申し上げたいと思います。

最近では、「木は狂うから」とか、「高いから」という理由で木の需要が減っています。しかし私は、アガチスと共に歩んできた滝口木材の人間として、アガチスのよさを伝え、市場を守っていかなくてはなりません。そしてそれ以上に、木材業界の人間として、更なる木材の普及活動のために尽力しなければなりません。これからも、現地・内地問わず、木のよさを伝えるために必死で駆け回ります!!


PS
先日いわき民報で読んだ、やきとり大吉いわき平店の店長、正木聡さんによる「ミャンマーに学校を建てるプロジェクト」。こういう動きには是非賛同したいと思います。当社も将来的には取引先であるインドネシアやマレーシアそして中国に何らかの形で恩返しをしていかなければならないと思う今日この頃です!!
■K■