シリーズ里山レポート 第2回

昨日からアップしているシリーズ里山レポートの第2回です。

今回は、前回紹介した“死んだ山”ではなく、“生きた山”で見た事、感じた事をご紹介したいと思います。業界の新人なものですから、プロの方が読んだら見当違いだと思われる部分もあるかと思いますが、そこは今後の成長への期待も込めて(自分で言うな!)、そこは目をつぶって読んで頂ければと思います。



シリーズ里山レポート 協力:失敗しない家造り勉強会つくば緑友会・宇佐美産業(株)
第2回 山で見えたもの



‐生きている山へ
“死の山” を後にした私達は、さらに一段高いところにバスで上っていく。目的地に着く頃には、いつの間にか雲はさらに厚みを増し、ちらつくだけだった雪の量もかなり増えていた。バスを降りると、冷気が体全体にぶつかってくる。しかし、視線の先にあるスギの木は、そんな寒さにビクともせずに、整然と、そして雄雄しく並んでいた。

整備されている山とそうでない山は、この私の目でもすぐ分かる。それぞれの幹が確かに太く、天に向かってまっすぐと伸びているからだ。“スギ”という名前は「まっすぐ」という言葉からつけられたと言われているが、そこに並んだスギたちは、まるで戦場に出向く侍のように潔く、静かに、そして力強く、そこに屹立していた。間伐によって十分な光が与えられている為、発育の度合いが違うのだ。死の山で見た木とは、何もかもまるで違うのである。

1本の木を育てるために費やされる手間は、私たちの想像を超える。それを何十年と繰り返してくるのだから、これを愛情を言わずなんと言おう。樹齢80年を超えた、1本の木に触れてみた。確かな温度を感じる。その体にしっかりと栄養を蓄えながら、この厳しい冬を耐えている、命の温度。

「この木は生きているんだ」 自然と、そう思えた。
「頑張って伸びていけよ」 私は心の中で、そう彼に言葉をかけた。



‐荘厳な儀式のはじまり
そうこうしていると、今回の見学会の最大の見せ場、スギの伐採の時間がやってきた。この辺りでは右に出る者がいないと言われる職人の松川理兵さんが木を伐ることになっていた。松川さんは空に伸びるスギの先を見つめた。倒れる方向を計算しているのだろう。そして、木に何かつぶやいたかと思うと、おもむろにチェーンソーを入れ始めた。

周囲の誰もが、固唾を飲んで見守る。しかし松川さんは私たちの緊張など気にも留めずに、淡々と、豪快に、しかし正確にチェーンソーを入れていく。その姿には、木を労わるでもなく、可愛がるでもない、狩に出た猟師のような“闘い”のエネルギーが満ちていた。松川さんは今、一歩間違えれば命を落としかねないという厳しい自然と向き合っているのだ。そこに、何か生ぬるい言葉をかけられる余地はなかった。

深く入れられた溝に松川さんは楔を入れ、奥深くに突き刺していく。楔を打つ、高く乾いた音が山にこだまする。私には、その音が何か荘厳な儀式のような、神事の太鼓のような音のように聞こえた。やがてスギはバリバリバリという音を響かせたかと思うと、谷の方向に向けて倒れ始めた。あっという間だった。大地の叫びと振動の余韻だけを残して、スギは、その巨体を斜面に横たえていた。



‐山の命を頂くということ
体の震えはまだ止まっていない。それどころか、私の目からは涙が零れ落ちそうになっていた。そして、それは私だけではなかった。さっきまで生きていた木の命を奪ってしまったような気がしたからかもしれない。命を頂くということの有難さが身にしみた。私は思わず、その倒れた木に向かって両手を合わせた。あたりには、優しく繊細なスギの芳香が漂っていた。深呼吸をした。涙は、もう止まっていた。

私たちの住宅には多かれ少なかれスギの木が使われている。その全てが、こうして山から伐り下ろされたものだ。1本1本、命を懸けて。木を伐る事は、命を奪う事なのだ。しかし、本当はそうではないことを、さっきの死の山が証明していた。いわば、木を生かす為に、伐るのだ。木を想うからこそ、育て、伐り、そして伐った木を、責任を持って使い続ける。それが、木と共に生きるという事だ。

木を伐ることは、新しい命を吹き込むこと。それは同時に、この地球に責任を持つということだ。そのことを、私はこの見学会ではっきりと自覚した。生きている木が倒れるときのあの振動。そしてスギの香り。こんなに五感一杯に、山を、木を感じた事は今まで一度もなかった。私は生まれて初めて、山や木と対峙したのかもしれない。私の命とスギの命。そんな命と命の“対等な”関係で。



-山を、子供達へ
そして、木材に携わる人間として考えた。私たちは、「木」を、山から分離した「木材」としてしか見てこなかったのではないかと。木目の美しさ、断熱効果、防音効果、軽い、体に優しい・・・。僕達が語るのは、いつも「木材」だった。そんな事を、もう何十年もやってきた。それなのに、日本人のほとんどの人たちが、スギの木が山にある事を知らない。スギが倒れる時のあの振動を知らない。

もう一度、山を見るべきではないか。山を見てもらうべきではないか。木が生きている事、山が生きている事、その恵みを頂くという事、そんな事こそを、もっと伝えてくるべきじゃなかったんだろうか。木造住宅が建たない。だから木材も売れない。木材を売るために、木材のよさをPRしよう。そこに、盲点はなかったのだろうか。答えはまだ出ない。これからも、はっきりと出ることはないのだろう。



ただ、1つだけ確信したことがある。私たちは、本当にきちんとは、山と向き合ってこなかったということだ。だから、今からでも遅くないから、木ではなく、もっともっと根っこの部分、つまり「山」を見せる。それを子供達に伝えていくのだ。愚直に続けていけば、今の子供達が大人になる頃になって少しずつ効果が出てくる。時間は掛かるけれど、もうそれしかないのではないか。この日の見学会に参加した一人の少年の笑顔。その笑顔は、私が感じた予感を確信に変えてくれていた。